親子二代の喉頭癌と放射線治療について
(北海道遠軽町;H.Sさん)

私の父は、昭和四十八年(当時六十歳)に突然声が出なくなり、町の医者に診ていただいた結果喉が腫れており、手術が必要と診断され札幌北大病院を紹介されました。

当時は、癌であることは本人には話がなく、家族にのみ知らされていたため、手術後、麻酔が覚めたら声が全く出ずでビックリやら、情けないやらの思いをしたようです。
それにしても声が出ないということは、電話やお客さんとの会話も出来ず、商売(畳店)ができない。また、家族のことを考えると途方に暮れたそうです。

その後、担当の医師から「練習次第で声は出る」との話を聞き、病院の屋上や、退院してからも、山や海で必死に発声練習を続けていました。
父は、1〜2年で何とか人に意思を伝えることが出来るまでになり、3〜4年後にかけては健常者と変わらない発声も会得し、商売のほうも順調に進みました。

その後は長男に店を任せ、食道発声の個人的な指導や、北鈴会の手伝いもしながら、さらに勉強を重ね、北鈴会『声の祭典』の発声競技会に出場し、食道発声の部で、昭和五十六年と五十七年は二位でしたが、三年目の五十八年には念願の優勝も果たしました。

このように、弱音は吐かずに黙々と達成に頑張る父でしたが、昭和六十三年の夏、七十七歳で永眠いたしました。
父の他界から一昔、元気だった私が、よもや父と同じ病気になっていようとは、夢にも思っておりませんでした。

平成十年十二月十五日、突然喉が痛み、声がかすれて出にくくなりました・その時は、風邪を引いた位に軽く思い風邪薬を飲めば直る。と、高を括っていました。
また、年末の繁忙期でもあったことや、1〜2月にかけては新年度の予算があり、何が何でも仕事をしなければならず、そのうちに直ると気にしないように努めていた。
だが、三月に入っても声が出なく、もしかしてと考えて北見日赤病院の耳鼻咽喉科で診察を受けたところ、非常に悪い症状が見られるので即入院検査が必要だという。

検査手術の結果は、父と同じ喉頭癌と告知され、樗然とする。
担当の医師の説明によると、処置としては声帯除去方法と放射線治療があり、あなたの場合の治療方法は五分五分であるから、二者選択をするよう通告もされました。
私は手術をしないで直ることを期待し、放射線治療を選ぶことにしました。
痛い、辛い日々が過ぎて、やっと照射後の検査を受けた結果「あなたの治療は成功しました」と、完治の旨を知らされた時は、天国へ登ったようなうれしさで一杯でした。

ところが、六月の退院からも喉の溝みは消えず、毎月治療を行っても結果は同じで、痛みは増すぱかりでした。
放射線科や耳鼻咽喉科では、放射線治療の結果で深くほれた部分が発生し、そこに異物が溜まって痛むので、よくうがいをすれば大丈夫との説明でした。
九月の治療も全く同じで、痛み止めを多く貰ったが、その後は痛みばかりでなく、食事も喉を通らなくなった。

十月、再度放射線科に検査を要請したところ、喉に異常が見られるので、耳鼻咽喉科で検査手術が必要と診断されて、またも検査手術を受けました。
診断は放射線潰瘍で・入院治療するよういわれました。
十二月まで治療を継続したが、痛みは一向に改善されないので一時退院し、家庭療養をしていたところ、一月十三日突然大量の出血をし緊急の再入院となりました。
そんな不安な治療経過から、今後の治療方法を担当の医師と再度相談した結果、体力的に限界であることと、傷が大きくなり危険であること知ら、従来の治療は断念 して喉頭摘出手術を止むなく実施することに結論を出しました。

喉摘手術がまた大変で、放射線で焼かれた部分の食道に穴が出来たままとなり、喉に穴を開け治療に専念したが、残念ながら今の医療では完治することは難しく、食事が出来る段階で一応の退院となりました。

従って、今後いつ再発が起きるかも分からぬ現状です。私は、現在六十歳です。奇しくも父親と同じ年に、同じ病気になった不幸な偶然に加え、今も病苦の解消の術は遠く無念に思うこのごろでございます。

北鈴会に入会し間もない私ですが、これからは皆様のご指導のもとに、父に負けないよう食道発声に努力します。さらに、放射線治療は、間違えれば人の一生を損なう危険性もあり得るので慎重な選択と治療を、体験者の立場から切に望みたいと思います。

最後に父親が作った一句を披露いたします。

『還暦に声を失い一年生』

この句は、父が六十歳で声を失い、苦しみや悲しみを乗り越えて、一からやり直しを誓った時の句だそうです。
私も、挫けそうになったらこの句を思い出し、父の心境と同様に一生懸命頑張りたいと思います。


これは、北の鈴 に載っている記事です。