「再発・そして死を見つめて」/
(鎌倉市;さとうさん) |
私には、かつて一つの望みがありました。
しかし、人生はそれからの2年間という短い間に二転三転いたします。
夏の間に順調に回復し見事退院、9月からは第2の声を取り戻すべく神奈川銀鈴会に入会
しました。
それから半年の出来事を筒条書ふうにすると、姪の結婚式に出ることができました。
しかし、暗転する日がやってきました。
それでも私は自分の人生が失敗だったとも、くいの残るものだったとも思っておりません。
それは家族においては健康で思いやりのある妻に恵まれ、一見頼りなげではありますが、
家族思いの3人の子供に恵まれました。
2年前の手術の時、かりに手遅れで死んでした場合はこの短い人生をうらめしく思い。
無念に耐えながら逝ったかも知れません。
本当に皆様、今日までのご厚情ありがとうございました。 みなさん みなさん さようなら 2004年5月**日
------------------------------------------------------------- この後、数日後に亡くなりました。(合掌) 題名はここのHPの管理者がつけました。 |
佐藤さんが喉頭摘出者のスピーチコンテストに参加されて
優秀な成績を収めました。
そのときの原稿です
2003 年 5 月 26 日 |
第 3O 回横浜銀鈴会定例総会、スピーチコンテスト原稿 |
. 皆さんこんにちは、わたくしは、佐藤裕ーと言います。昨年 6 月 5 日に手術を受けましたの で、後 10 日程で丁度 1 年が経過する事になります。もう 1 年が経つのかと、夢のような気持 です。この一年様々な事は有りましたが、再発も転移もみられず、無事に一年を経過したのだ、 と今は安堵の気持でいます。術後の治療を終え、退院した頃は、満足に食事もとれずにおりま したが、今で、は一人前に晩酌まで、する毎日です。横浜銀鈴会にお世話になったのは、昨年 9 月 の 2 学期始めからですロ夏の暑い盛りは、まだ食道発声の何であるか全くしらず、毎日文字板 を持って歩き、筆談しか出来ないため相手にじれったい思いをさせていたと思います。自分は 病人なのだ、身障者なのだ、相手は私に気を使って当然なのだ、と思っていたかもしれません。 ところが、こちらにきて , お世話になるようになり、皆さんが本当に苦労されながら、練習に励 んでいられる姿を見、仲間に入れていただくうちに、考えが変わってきました。私には、少し でも、相手がわかり易いように表現する義務がある、つまり、発音、発声が不自由なら他の手 段を総動員してでも、相手に理解して貰う、文字板に頼らずに、なんとか、聞きとりやすい表 現で、解ってもらう事が大事なのだ、と、思うようになりました。まだいつもいつも自由に発声 できるわけでもないので、特に食事の問、直後は芦が殆んど出ませんので、機械 EL もいつも 持ち歩いていますが、相手から機械よりも地声の方がわかり易い、といわれることもあり、てもうれしくなります。銀鈴会では、諾先生方にたくさんの技術を教えて頂きましたが、もっ と大事なこと、他人に面倒をかけないように自分を表現すること、コミュニケーションの大切 さ、を教えていただいた様におもいます。識に感謝に耐えません。まだまだ未熟な者ですから、 いよいよ励んで、皆様に負けないようがんばって行きたい、と思っております。有難うござい ました。 |