音声言語医学と無喉頭音声
(北海道大学医学部教授:N.Nさん;北の鈴15号より)

 近年医学の領域で無喉頭音声への関心が高まっていることは喜ばしい限りです。例をあげてみれば昨年度の日本音声言語医学会、日本喉頭科学会、本年度の日本音声言語医学会、日本気管食道科学会においてそれぞれ、パネルディスカッション、シンポジウム等の特別企画が無喉頭音声の生成機構、喉頭描出後の手術的音声再建法等についてとりあげられております。

 これは少なくとも私が医師となって以来類をみなかった出来事であるといってよろしいでしょう。
では何故、いまになって無喉頭音声が臨床家の関心をあつめているのでしょうか。

 無喉頭音声の歴史は、1873年ウィーンにおいてBillroth 教授が世界最初の喉頭全摘出術に成功した時代まで遡ることができます。
Billrothによる最初の喉頭全摘出術からわずか二十年後には食道音声に関する最初の記載が医学文献に登場することは驚くべきことです。(医史学からみた詳しい解説を平成6年度の「北の鈴」に掲載されている「食道発声の歴史的変遷」が載せておられますのでご参照ください。)

 そののち食道音声の生成機構に関するたくさんの研究が行われ、欧米では臨床の専門家による無喉頭音声の指導がひろく行われるようになりました。
一方わが国では歴史的に喉頭全摘出後の音声リハビリテーションは喉頭摘出者自身による篤志的な活動によって支えられてきました。

 この背景には第二次世界大戦後まもなく阪喉会、銀鈴会をはじめとする喉摘者団休 が各地に結成され、代用音声に関する啓蒙活動を活発に行った実績がある一方、言語療法を担当する臨床専門職の国家資格制度の整備が遅れ、この分野への医療の進出が大きく立ち後れた現実があります。

 リハビリテーションという言葉は医療、福祉の領域でさまざまな意味あいで使われています。
私はこの言葉を簡単に言い表すために「医者が匙を投げたところから始まる医療」と解釈しています。
喉頭悪性腫瘍の治療に関していえぱ、医師の行いうる冶療は腫瘍細胞を体から取り除いて患者さんの全身状態を安定させるまで、という考え方が伝統的に日本の医療にはあったように思います。
ところが喉頭悪性腫瘍の患者さんが心身ともに健常に社会生活に復帰するためには、悪性腫瘍の治療が終わった(医者が匙を投げた)ところから始まる音声リハビリテーションの過程を経なければならないのは当然のことです。
そしてまさに音声リハビリテーションの領域に医療がやっと目を向け始めたことが、昨今の医学会における無喉頭音声への関心の高まりに象徴されているように思います。

 ここに至ってやっと、喉頭描出後の音声リハビリテーションは「医者が匙をなげる」領域から脱して、「悪性腫瘍の冶療の一環」として手術前から始まる医療に進歩したのです。
 医学が関わる音声リハビリテーションの最も大きな成果は、手術的な音声再建(いわゆるシャント手術)の発展でしょう。
さらに医療工学の分野でも電気式人工喉頭の改良が着々と進んでいます。

 私は無喉頭音声として最も有利な面が多いと考えられる食道音声の獲得指導の領域にも医療専門職が積極的に関わるべきであると考えています。
このために必要な医療専門職の国家資格も1997年に言語聴覚士として制定されました。

 あるべき形は喉摘者団体による発声指導と競合する事ではなく、双方の経験と専門的な知識の交換の上に成り立つ連携であり、専門職によって入院治療の早期から適切な導入が行われることによって、患者さんは声を失うことに対する絶望と不安を音声再獲得に対する希望と意欲に切り替えて闘病の期間を乗り切ることができると思うのです。