食道発声の歴史的変遷
(北海道大学医学部教授;M.Iさん:北鈴会11号)
この度は北鈴会の創立三十周年、本当におめでとうございます。心からお祝い申し上げますとともに、貴会の益々の御活躍をお祈り申し上げます。
そこで本稿では食道発声の歴史的変遷を振り返り、皆様の御参考に供したいと思い
ます。1873年(明治6年)12月31目にウィーン大学医学部外科のビルロート教授により喉頭全摘術が初めて行われたことは以前にお話したことがありますので御記憶の方もおられるかと思います。
この時代は全身麻酔が始められてからすでに三十年が経過しておりましたが、滅菌法や無菌法などの感染対策はまだ十分に行われておりませんでした。
したがって手術を行う方も、また手術を受ける方もまだまだ大変な時代であったと思います(因みにわが国における最初の喉頭全摘術の記録は明治二十年十二月に東京医事新誌に掲載されています)。
一方、初の喉頭全摘術が行われた三週後にはピルロートの弟子のグッセソバウワ一は最初の人工喉頭ともいえる「咽頭側を開放したTチューブ」を気管切開チューブ内に挿入しました。
しかし、この試みは残念ながら誤嚥のために成功しませんでした。
その後もいろいろな人工喉頭が工夫されましたが、一方では人工喉頭の助けを借りずに話をする方法も模索されていました。
このような器具を用いない発声法は実は喉頭全摘術が試みられる前から行われていたのです。
すなわち、慢性の喉頭疾患や喉頭の外傷を受けた人々が喉頭以外の部分を使って偽声を出すことが知られていました。
それを実証したのはフランスの医師ラプラソで、彼は一八二八年(文政十一年)にバリの科学アカデミ-で初めでこのような症例を報告しています。
その後もやはりフランスのレイノーとブールジェにより子音発声が報告されています。
これらの発声法は口腔囁語や下咽頭発声といわれる方法です。前者は咽頭腔や口腔内の空気が構音器官(口唇、歯・舌、口蓋、咽頭)を通って排出されることにより作られる音声です。
これはいくつかの子音を口唇や舌により作る方法です。しかし、この音声は母音が欠けているため音が弱く、聞き手にとっては理解するのがかなり困難でありました。
一方、後者の下咽頭発声は下咽頭や上咽頭に空気を溜める方法で、この場合の仮声門は舌根(舌の後1/3)と咽頭後壁との間に形成されます。しかし、この仮声門は緊張が不良であるため、言葉は単調でとても自然声とはいえないものでした。
そしてこれらの発声に取って代わったのが食道発声です。それでは一体いっ頃から食道発声が行われ始めたのでしょうか。
文献によりますとビルロートが最初の喉頭全摘術を行ってから十五年経った1888年に発表されたストリュービングの論文が嚆矢とされているようです。
この論文の中の患者さんは喉頭全摘術後の比較的早い時期に、かなり明瞭な会話が可能であったようです。またストリュービソグはこの論文により、食道上部を含めて発声に必要な空気貯蔵部の存在を初めて指摘しました。
しかし、彼は仮声門(音源)は舌根部であると考えていたようです。(これは現在の知識では誤りです)。この報告からやや遅れて一八九十年代になると、さらにいくつかの症例が報告されるようになりました。
そして1908年にベルリンのンヤリテ病院の医師グヅツマソが第一回ウィーン国際喉頭.鼻科学会において、有名な喉頭科医グルックの手術を受けた二十五名の患者さんが喉頭全摘術後に言語を再獲得したことを報告し、出席していた喉頭科医を大変驚かせました。
そしてこのことが喉頭全摘術後の音声リハビリテーシヨソの出発点になったのです。
したがって今日用いられている教育方法の基本はこのグッツマン父子のお蔭であるといっても過言ではありません。
今世紀の始めにはドイツ、デンマーク、オーストリアなど世界のあちこちに音声医学の学校が創立されました(わが国では一九四九年になって初めて阪喉会という喉頭全摘術を受けた方の会が大阪で結成されました)。
しかしながら、わが国では今世紀も余すところ六年になった現在でも、未だに音声言語療法土の身分制度は確立されておらず、誠に遺憾であるといわざるを得ません。
1923年にはバリ大学医学部耳鼻咽喉科のセビロー教授は「私が経過をみていた二人の患者さんは根気よく訓練を続けた結果、飲み込んだ空気を蓄積しておき、これを軟口蓋を振動する(7ランス語のラリルレロはすべてノドチソコを振るわせて発音します)のに利用することに成功し、言葉を取り戻した」と述べています。
このように前世紀の終わりから、今世紀の始めにかけて、喉頭全摘術後の食道発声が十分可能である、ことが証明されました。
そこで次のステップ゚してよりよい音声の獲得を目指して食道発声のメカニズムを分析する必要が生じてきました。これまでの研究で食道が空気を溜めておくタンクの役割を果たしていることは異論のないところでしたが、仮声門の位置はまだ明らかにされていませんでした。
しかし、この点に関してはX線透視検査の導入により必要な情報がもたらされるようになりました。
その結果、仮声門は下咽頭と食道の接合部、すなわち輸状咽頭収縮筋のレベルにあることが明らかにされました。
因みにネーヴスは1938年の論文の中でこの部分は楽器のリードと同じような作用をしている」と述べています。
これに対して最近はより詳細な、かつ精度の高い検査法が可能となっており、私の教室のN.N博士も北鈴会の方々に御協力を頂いていろいろ検査を行い、素晴らしい研究成果を挙げっっあり、いずれその成果が会員の皆様にフィードバックされることが期待されています。
「レオナルド・ダ・ヴィソチの手記」の中に「科学を知らずに実践に捕らわれてしまう人は、ちょうど舵も羅針盤もなく船に乗り込む水先案内人のようなもので、どこへ行くやら絶対に確かでない。つねに実践は正しい理論の上に構築されねばならぬ」という有名な言葉があります。
会員の皆様もどうか正しい理論の上に立って、たゆまぬ訓練を行い、よりよい音声を獲得されることを祈ってやみません。