以下は、横浜大空襲についてネットの記事のごく一部です。
ーー昭和20(1945)年5月29日未明、米第21爆撃機集団所属のB29編隊517機 がマリアナ基地を発進し、午前9時20分ころ横浜上空に達し、10時半ころまで、約1時間で、総数43万8,576個(2,569.6トン)の大量の焼夷弾を投下した。 密集した木造家屋を焼き払うのに適したM69と呼ばれる集束焼夷弾攻撃によ り、中区・南区・西区・神奈川区を中心に、横浜の市街地は猛火につつまれた。 この大空襲による被害は、直後の公式発表によれば、死者3,650人、重軽傷者 10,198人、行方不明309人、罹災者は311,218人とされる。 大正12(1923)年の関東大震災から20年余りが過ぎ、ようやく復興した横浜の街は、再び灰燼に帰したのである。ーー
三寸は去年、遠縁の元海上自衛隊大幹部に次のメールを。
ーー8月15日、雨の靖國を去る前に、ビニールを敷いてベンチで休んでゐると、大鳥井に執して撮影してゐたアンチャンに話しかけられました。 「おとうさん、いくつ?」 「81歳」 「ぢや、終戦の時は5歳だ。覺えてゐる?」 「うーん、終戰は疎開先で迎へたのから、正確に、いつ・どこのことかはハッキリしないが、アメリカの大型爆撃機をめがけて、日本の小さな戰鬪機が次々と突つ込んで體當たりしては、木の葉のやうに舞ひ落ちる。アメリカの方も初めは悠然としてゐたが、やがて尻尾から火を吹き始め、きりもみ状態に。それが瞼に殘つてゐて、中学生くらゐになつてから思ひ出し、あのちやちな飛行機にはすべて日本人兵士が乘つてゐて、國を護るために命を捧げたーー死んだのだと氣づいた時は慄然として、考へ込んだ」 「その記憶は何が主? 音?色?」 「さうだな、爆音も聞えたかもしれないが、あまり覺えてゐない。花火でも見てゐるやうな氣だつたかな」 「大人になつてどう考へた?」 「仇討ちができないかと思つたが、”平和”だの”反戰”だのといふイデオロギーに馴染んだことは、一度もなかつた」 「ははは。氣をつけて歸つて」 ーー
三寸は終戦の翌年に小学校入学ですから、栞さんより一年下。あの時の一年の 差は大きく、記憶にも違いがあるでしょうね。三寸の場合、夢とうつつの間みたいです。でも、この”アンチャン”の、たたみかけるような的確な質問は自衛隊関係者の間で大評判になった由。三寸も見かけによらずしっかりした若者と感心していました。 |